【感想】「小説仮面ライダーエグゼイド マイティノベルX」が示した”真の”仮面ライダークロニクル

2018年6月27日、小説仮面ライダーシリーズに連なる一作として「小説仮面ライダーエグゼイド マイティノベルX」が発売された。

 

このシリーズ、平成二期はウィザード以外は全て所持しているが、それらをすべて読んだ傾向として「後日談のさらに後日談」「テレビ本編で明かせなかった・できなかった設定の開示」の二点が挙げられる。

本編の隙間を埋めるような内容の「W」、どうしてもできなかった卒業式を描いた「フォーゼ」、Vシネマから続く更なる未来の話「鎧武」、同じくVシネマ「スペクター」から続きその壮大かつハードな歴史が明かされた「ゴースト」など、どれも本編からこぼれてしまったものを拾い上げて昇華している。

特に「ゴースト」は全てが終わった後に「訳の分からないあれはそういうことだったのか…!」と一気に繋がっていく快感があったほどだ。テレビ本編ががっかりだったという方にもできれば読んでいただきたい。

 

話を戻すと、「エグゼイド」もやはりそれに漏れない一冊だった。

本編では掘り下げがやや足りず主人公にしてはどこか異質だった宝生永夢にようやくスポットライトを当てて、彼の全てを白日の下に曝け出した本作。

自分は発売日からやや遅れて購入・読破したのだが、その間に見かけた読破者の感想が不穏だったもので頁を開くまではかなり戦々恐々としていたものだ。小説まで買う歴戦のゲーム病患者たちの症状を一気に進行させるとは、一体どのような内容なのか、と。

 

果たしてそこには予想だにしなかった「闇」が待ち構えていた。

 

計算尽くめのConstruction

感想に行く前に、まずは本作の特徴についてもひとしきり語っておきたい。

 

最大の特徴は何と言っても登場する新ガシャット「マイティノベルX」のジャンルであるノベルゲームを、登場人物だけでなく読者であるこちらも体験できるように書かれた構成そのものだ。

 最初は檀黎斗の声が聞こえてくるようなチュートリアル音声から始まり、ここでの「マイティノベルXを読み進めるか否か」の選択肢が既に作中・現実ともに選択肢を選ぶことを迫るようになっている。きちんとチュートリアルの役目を果たしているわけだ。

そして始まる物語は各登場人物の一人称視点から描写されることで実写映像では再現し切れない独白を通して「間違いなくあのキャラクターだ」というキャラ立てと同時に”キャラクターは普段どういう風に物事を考えているのか”という設定を明らかにもしており、制約の少ない小説という媒体ならではの表現が十二分に生かされている。

そして構成上の白眉となるのは〈選択肢〉の出現だ。

キャラクターたちと共に過去を読み進めていき、次第に彼らと同じだけの情報と気持ちで永夢を見るようになった頃に提示される選択肢。キモなのは提示されてから選択するまでに必ずページを跨ぐという点であり、これによって私たちも「正解はどれなのか」「彼らならこんな状況でどんな言葉を掛けるのか」「この先に進んでもいいのか」という疑問・興味・不安などの様々な感情を抱かざるを得ない。

自分の体験を思い出してほしい。恐らくはほとんどの方が選択肢について真剣に考え抜いた末にページをめくったのではないだろうか。自分もその一人に漏れない。

もちろん私たちにはゲームオーバーは存在せず、何も考えずにページをめくる事だってできたはずだ。たかがゲーム、たかが小説のはずなのだから。だが選択の時には既にそんなことは頭にはなく、本気でゲームにのめり込んでいる。この驚異的なまでの没入感こそ、我らが檀黎斗の神の才能の証明に他ならない。

そして何よりそんな小説を生み出した流石の高橋悠也氏の手腕である。テレビ本編から様々な事柄に(恐らく当初の予定にはなかったであろうことにさえ)ロジカルな筋を通してきたことからして、今回の小説は完全に計算尽くめで練られ書かれたのだろう。本当に凄い作品を生み出してくれたことに関して感謝の念を抱くばかりだ。

 

封じられたPast

ここからはネタバレになるので未読の方は自己責任で進んでいただきたい。

 

 

 

 

 

 

 マイティノベルXを通じて明かされた宝生永夢の過去。それは今ここにいる彼からは想像もできないようなものだった。

「親が仕事で忙しくていつも一人でゲームばかりしていた」という台詞は本編でも既に出ており、これがパラドの誕生に繋がっていたりするのはご存知だろうが、今作ではさらに突っ込んで本質が暴かれた。

 

「幼い永夢はほぼネグレクト状態でまともな養育を受けられず、ゲームだけを心の拠り所にして生きていた」 という真相が明らかになった時、そのあまりの生々しさに絶句したことを今でも思い出せる。同時にこれがニチアサで放送されていたら阿鼻叫喚・非難轟々だっただろうなとも。

ほぼ同時に描かれた、檀黎斗が歪んで行った「増長からの檀正宗がわざと起こさせた嫉妬」という原因は「なるほどそういうことか」で済ませるくらいにはちょっと想像がつきにくい、言い換えれば作り物ゆえの嘘だが、永夢の方は”この日本のどこかには今もそういう家庭があるのではないか”という身近さがある。

そしてその結果が、あの事故の日にも隠された真実があったことを暴き出そうと繋がっていく道程はもう貴利矢と同じく知ることが怖くて仕方がなかった。

 

ゲーム以外なにもなかった少年の宝生永夢は、黎斗が腹いせに送り付けた超高難度のゲームをプレイするもクリアできず、そのうち人生すらもゲームのようにリセットしようと考え、学校へ行かずに車道へと踏み出した。

 

父親との間に、あるいは世界そのものに対して何もなかった少年の突発的自殺。

この時、永夢の心には病気が巣食っていた。ウイルスによるものではなく「現実をゲームとして捉えてしまい命を軽視する」という意味での”ゲーム病”。

二重にゲーム病に感染していた命の大切さの分からなかった永夢にとって”救い”となったのが日向恭太郎というのも納得しかなかった。テレビ本編では「心も救われた」のが一体どのあたりなのかやや分かり辛く、死の恐怖を取り除いてくれたことなのかと思っていたが、なるほど彼は命を救っただけでなく、初めて永夢の心に寄り添い心のゲーム病からも救ってくれていたのだ。これなら彼の姿勢をリスペクトするのも大いに納得である。

 

しかしここからもまだ闇は深かった。リアルな家庭の闇や事故の真相が「本当は訳もない自殺だった」と分かるだけでも相当ヤバイのにまだ続くのだ。他でもない我らが檀黎斗によって。

 

「16年前から君は透き通るように純粋だった……その水晶の輝きがァ、ウ私の才能を刺激してくれたァ! 君は最高のモルモットだァー! 君の人生は全て! 私のッ、この、手の上で……転がされているんだよッ!! ダァーッハッハッハッハッハ!! ヴァーハハハハハハ!!」

 

ブゥン!」が聞こえてきた人は一旦落ち着いてから続きを読んでほしい。

 

 

 

 今や檀黎斗の迷シーンみたいな扱いがすっかり定着してしまったが、本来ここでの彼の台詞はメチャクチャに重い意味を持っていた。そして本作を読んでからはもう笑えるシーンなどとは言っていられない。この台詞は全てが真実なのだから。

 

ポッピーの記憶の中の檀櫻子の独白で明らかになったが周囲の人間の誰にも興味を抱かなかったという黎斗が、初めて自分の立場を揺らがされ危機感から才能を刺激された相手こそ永夢であり、バグスターウイルスを送り付けたあの日から、黎斗はずっと永夢のことを観察していた。それだけならテレビ本編からも分かることだが、もっと酷かったのはそこに永夢の父親である清長と檀正宗という二人の父親が関わっていたことだ。

偶然からバグスターウイルスを生み出してしまった清長と、それをネタに自分たちに協力するよう揺すり続けた正宗。そして永夢を実験台としてつぶさに観察していた黎斗。父親たちは息子たちの人生を大きく歪めていきながら最後には知らんふりを決め込み、その結果黎斗は暴走し永夢は彼の知らないところで運命が操作されていく。

死のうと思ったのも黎斗のせい、天才ゲーマーMとなったのも黎斗のせい、ドクターを目指したのも黎斗のせい、仮面ライダーになったのだって黎斗のせい……もはや宝生永夢の人生は檀黎斗がいなければ成立しえなかったというレベルまで食い込んでいる。

 

このあまりにもあんまりな人生を永夢も黎斗も「何もなかった」とはっきり言いきってしまう。父との関係も絆もなく、ゆえに期待もない。自分で選べた運命もない。

自殺未遂の後には運命を操作された人生が待ち受けていた、などという最悪の事実は自分でも知りたくなかっただろうし、誰にも知られたくはなかっただろう。下手な真実なら知らないくらいがいいのに、こんな背景を用意する高橋祐也は鬼か?

 

しかし個人的にはむしろこの「何もなかった」ことこそが永夢の選択にプラスに働いたのではないかと思う部分もあるのだ。

何しろ彼と似た者同士だった黎斗がああなってしまったのが関係性を積み上げて行った末路の破綻だったのに対し、空洞のような何もない人生だったから過去に縛られることもなかったのだから。正確には永夢自身、心と記憶に封をしていた状態だったが、それはそれで大人になっていく過程で割り切った選択ができるようになったことの表れでもある。

またマイティノベルXの仕様から逆算していくと、あれらの選択肢に永夢は自分自身で答えを出して乗り越えて行ったはずだ。「自分は必要ない人間だ」という定義、居心地のよい病院を出る決意、誰に応援されなくても医者になることを決めた18歳の選択。私たちが闇だなんだと言うだけのことに、ちゃんと永夢は向き合って操られた運命を常に変え続けていた。十分すぎるほどに強く生きていたのだ。

 

そして操られた運命に抗い続ける彼の生き様は、やがてもう一人の彼とも言える檀黎斗との交わりを経て究極のゲームへと昇華されていく。この小説にはそれがハッキリと描き出されていた。

 

無限のChronicle

時系列でこの小説の一つ前となる「エグゼイドトリロジー アナザー・エンディング」の最終作「仮面ライダーゲンムVS仮面ライダーレーザー」は視聴後に自分の中の檀黎斗評を180度変えるほどの内容だった。

それまで自分は黎斗のことを「狂って神を自称し始めた男」と見たままに思っていたのだが、その評価が完全に変わってしまったのだ。

本当は黎斗は地に足の着いた思考を養うことができず、様々なゲームを開発したことで本物の神の視点を得てしまった人間だった。ざっくり要約するとこんな感じである。もう少し詳しく知りたいと思ってくれた方は下のリンクから読んでいただきたい。

https://fusetter.com/tw/PRL4S

 

さてこの通り「檀黎斗は人間の中に宿った本物の神だった」と自分は解釈したので、これを踏まえて小説の終盤の展開を読み進めていくと、驚くほど素直にハッキリとテーマに基づくメッセージが見えてきた。

 

ゴッドマキシマムと対峙したエグゼイドは「ムテキなら負けはしないが勝つのも簡単じゃない」などと割ととんでもないことを言い出し(「寿命が尽きるから負け」理論は身もふたもなくて笑ってしまった)、戦う力のないマイティノベルXに全てを賭ける。

永夢の人生そのものが記されたゲーム、エンディングは彼自身の結末。ならばその未来は自分で切り開く、という彼の信念から変身能力を得て変身したノベルゲーマー レベルXは「永夢の言葉を現実にする」というこれまたとんでもない力を持っていた。物語やテーマ上の意味だけでなく、単純にバトルとしてチートの応酬もここまできたかと乾いた笑いが出たものだ。

その力で勝利を収めた永夢が消滅し行く黎斗Ⅱにかけた言葉。これこそ永夢と黎斗の人生そのものであり、エグゼイドのテーマそのものだと、自分は強く感じた。

 

「きっとあなたは死ぬまで変わらない。きっと死ぬまでゲームを作り続けるでしょう。だから僕もあなたの心療を続けます。死ぬまで攻略し続けます。あなたが作るゲームを」

 

黎斗はいくつもの試練を与え、永夢の運命を常に操っていた。それこそ神話に出てくる厄介な神、英雄譚で主人公に降りかかる過酷な運命そのものである。

一方、その神の手のひらの上で踊らされ続けていた永夢は、決して屈することなく常に運命に向き合い、抗い、最後には運命を変えてきた。これまた常に試練を乗り越えていく英雄的な生き方だ。

そんな二人が、ゲームクリエイターとゲーマーとして、絶対クリアできないゲームという試練を繰り出しては乗り越えていく、一生続くその”螺旋”の関係で以って完成される。まさしく神話や英雄譚的であり、その意味でこれこそがまさに「仮面ライダークロニクル」なのだ。

そして何もこれは二人だけに限った話ではない。飛彩も、大我も、貴利矢も、パラドも、ポッピーも、ニコも。そして他でもない私たち自身にも。

 

永夢曰く、人が生きるということは運命を変える力だ。生きる限り誰もが運命を変えていくことができる。

本作では永夢と黎斗の関係を通して描かれているが、その実テーマは実に簡単だ。

誰の人生にだって運命の岐路や大きな選択、困難な試練が待ち受けている。時には力及ばす歯が立たないこともあるかもしれないが、生きる限り全ての人にそれらを乗り越えていく力が備わっている。誰もが運命を変えるヒーローになれる。乗り越えたその先で、きっと皆が笑顔になれるはず。

 

つまりここで描き出されたメッセージは「人生とは終わりなきゲーム」という事だ。

黎斗が目指した「満たされない人々に夢と冒険を与える」という仮面ライダークロニクルの開発思想も、そのことに気付ければ全ては変わって見えてくる。人生を懸命に生きることこそ他でもない仮面ライダークロニクルになるのだ

 

ちなみに最初から読み返せばわかるがチュートリアルの時点で実はもう言われていたりする。気になったら15ページを開いていただきたい。全てわかるはずだ。

他にも現実をゲームに例えて捉える少年時代の永夢の生き方や、ゲームの中に生命の定義を見つけ出した黎斗のように、このテーマは一切ブレることなく、しかし巧妙に張り巡らされている。つくづく高橋悠也と檀黎斗の掌の上で踊らされていることを自覚した。

 

永夢と黎斗の過去から未来まで続く永遠の戦いを通じて、命とゲームの二つのテーマが二重螺旋を描き、ここに真の完結を見る。

その驚くべき巧妙さで常に私たちを楽しませてくれたエグゼイドのトリを飾る作品として構成、キャラクターの描き方、内容のどれをとっても申し分のない出来だった。

 

いつかまた才能の旅に出た彼らと未来で再会したいものだ。