あなたは最期にどんな自分を遺したい? ドラマ「dele」が面白い

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スマートフォン、PC、タブレットなどの普及・市場拡大によって「デジタル社会」と呼ばれることも少なくなくなった昨今。

総務省によれば日本の総世帯数に対し平成29年度(2017年)にスマートフォンの所持が確認される世帯は全体の約7割。なるほどこれは社会がデジタル化していると言えよう。

総務省|平成29年版 情報通信白書|平成29年版 情報通信白書のポイント

 

そんな中、自分のようなボンクラなオタク界隈ではデジタルデバイスに対するとある話題が時折、そして繰り返し話に上がる。

それは「もし自分が突然死などを遂げた場合、データの扱いはどうなるのか」という話である。

だいたいは「保存してあるエロ画像を家族に見られるとか最悪すぎる」などといった益体もない方に展開していって終わるのだが、今の社会では実は割と重要なことなのかもしれない。

技術の進歩と共にスマートフォンで大量のデータを保存しておくことができるようになり、我々は手の中に個人情報の城を抱え持っているようなものだ。タブレット、PCなどに移ればより多くのデータを保存し、人によっては宝の山を成していることもあるだろう。

その城は王である所有者が生きている限りは様々な対策を講じてデータを守ることができるが、一度所有権を失ってしまえばどうしようもない。そこに秘められた大量の個人情報は一気に白日の下に晒されかねないのだ。

※少し話題が逸れるが、今秋まさしくそれを題材にした映画「スマホを落としただけなのに」が公開される。

 

「もし自分に不慮の出来事があってデバイスを操作できなくなった時、なにか不都合なデータなどを削除してくれる誰かがいれば……」

今回取り上げるのはずばりその業務を請け負う二人の青年と共に依頼人の最期を追うドラマ、「dele(ディーリー)」だ。

基本設定以外は毎回違う話を描く一話完結式のため、イントロダクションとメインキャラクターさえ覚えておけばいつでも話に入っていくことができる。まだ一話も見ていないという方は、そちらについては上記の公式サイト「INTRO」「CAST」よりご確認いただきたい。

今をときめく菅田将暉山田孝之の二大カメレオン俳優の共演だけでも見る価値は十二分だ。

 

さて、今後もしかしたら登場する、あるいはすでにどこかにはあるのかもしれないデジタル遺品取扱業者を描くこのドラマは、見ていてはっきりわかるほどにその作りに一貫したテーマがある(まだ2話だけど)。

すなわち「デジタルか、アナログか」「ドライか、ウェットか」。この二つのテーマが「デジタル遺品に込められた依頼人の真意」という軸に対し常に絡み合っている。

 

菅田将暉演じる主人公の一人、真柴裕太郎は「人をほんの少しだけ優しい気持ちにできる」と言われる人の好い青年である。外に出て調査し依頼人の最期の真意を探り、せめて関連人物にだけでもそれを伝えようと提案してくるのはいつも彼だ。

一方で山田孝之演じるもう一人の主人公、坂上圭司はいつも事務所でPCと向き合い口を開けば言いたいことだけ素早く喋り切ってしまう、ややとっつきにくい青年だ。依頼人の調査を裕太郎に任せては、いつも彼に引っ張られて最期の真意を調査してしまう。

正反対の二人がコンビを組んで調査に当たる、バディものの王道だ。

 

ここで先ほどの二つのテーマを思い出していただきたい。

果たしてあなたは裕太郎と圭司、どっちがアナログ・デジタル or ドライ・ウェットに当てはまると思うだろうか?

 

恐らくは裕太郎=アナログ・ウェット圭司=デジタル・ドライといった印象を抱いたのではないだろうか。

おおよその印象として、昔ながらの人への聞き込みや歩き回っての調査=アナログなやり方は、人との触れ合いを重視するためウェットなイメージを持ちがちである。逆に、デジタルデバイスからインターネットに繋ぎ、殆ど動くことなく情報を得るやり方はなんとなくドライに思えることがないだろうか?

主人公二人にもそれが当て嵌められている。それぞれの分担を見れば自然とそういう印象を抱くようにキャラクターが造形されているのだ。

 

しかしこのドラマが面白いのは絶えず「それだけではない」とさりげなく示す点だ。

例えば第1話で、ハッキングを仕掛ける際に重要なこととして圭司は「社交性と行動力」というなんともアナログな答えを出している。

この「デジタルとアナログは一見交わらないようでいて実は不可分であり、全ては捉え方一つで変わってくる」という真のテーマこそがdeleの最大の魅力なのだ。

 

常に笑みを絶やさず誰とでも話す裕太郎は、本当は過去に何か闇を抱えているらしいことが示唆されている。恐らくそれが関係してできた彼の行動は、結果的に大切な人に伝わることなく消えかけていた真意を探り当てたかもしれない。

しかし本当に望まれているのはそんなことではなくただ削除、それだけだ。彼がやっていることは契約違反であり、もっと言えば彼個人の興味を満たすために個人情報を覗き見て勝手な解釈をしているにすぎない。

対照的に常に仏頂面の圭司だが、すでに言及したように裕太郎の勝手な行いに最後まで付き合っている辺りから人の良さは見て取れるし、必要とあればちゃんと外に出て自分でアナログな調査もする

また非情・冷酷に見える指定データの即削除だって依頼人の個人情報を守る観点からすれば満点の行動であり、ちゃんと人を思いやれる人物なのが分かるのだ。

 

一見ステレオタイプに見える主人公二人もしっかり噛み砕いていけばそれだけでないことが分かるように、依頼人の削除依頼を巡る最期の真意もまた一義的なものの見方を拒むようなものが配置されている。

例えば第1話の依頼人はゴシップジャーナリスト。削除してほしいと頼まれたフォルダには警察組織と都議の癒着について追及したデータがあった。それを二人が突き止めたため、彼は最期に「正義を為すために命を懸けたジャーナリスト」として息子の中に残った、という一つのオチがついている。

しかし本当はデータはもう一つあった。それは彼がゴシップ誌を書くために芸能人や著名人たちの行動を操作し意図的にゴシップのタネを蒔いていた、という正義の人とは言えない行いの記録だったのである。

果たして彼が本当に消したかったのは汚職の証拠か、ゴシップのタネか。彼は憧れられる父親だったのか、最低の人間だったのか

データは二つ、選ばれたのは一つ、故に真実も"一つ"だけ。どちらも知る圭司からすれば、後は解釈に委ねることしかできないというグレーな総括で話は締めくくられる。

人情話の方へ針が触れて行ってやや湿っぽい空気になったのを、最後に乾いた現実を突き付けることで少しヒリつくのを感じる、この感覚がたまらなく好きになってしまったのだ。

 

世界が一つの物事で成り立っていないように、人間も、そしてデータ一つとっても複雑で多面的なものだという一つの真実を描き出すドラマ・dele。

いつか訪れる私の最期も、あなたの最期も、誰かに様々に解釈されるのかもしれない。

だから最後に改めて問いたい。

あなたは最期に"どんな自分を遺したい"?